「今は亡きあの人へ
伝えたい言葉」
過去の入選作品、朗読動画

これまで集まった約10,000通のお手紙には約10,000の想いが込められています。
こちらではそんなたくさんの想いの一部を皆さまにお届けします。

過去の入選作品

これまでの入賞作品より、「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」実行委員会が選んだお手紙をご紹介します。
こちらの作品は書籍化に伴い、全て「今は亡きあの人へ伝えたい言葉8」に掲載されています。

自分もおばあちゃんになって気づいたこと

おかあちゃんとハグしたい

母のくちグセは、「歩かんと歩けんようになる」で、毎日、毎日、歩いていました。
今、私は「歩けなくなりますよ」と、歩け歩け、運動して下さいと、言われている。

「ペットボトルのフタ、開けて」
「それくらい開けな、あけれなくなるよ」
今の私は(年寄りは、ジュースも飲むなって言うのか!)と、フタが開けられない。
「この袋、開けへん、あけて」
「それぐらい開けやれるやろ」
今の私は(なんでこの袋、こんなにピチャッと、くっついて、開けへんのや!)と。

当時の私は、歳を取ったとは、言うもののなんでも、頼ってくる母に、少しイラッとしてました。
ある日、「テレビが無い、テレビが無い」と、母が言い出しました。
「有るやん、こんな大きなテレビが2台」
「見るのが無い、見るのが・・・」と、母。
「2・4・6・8・10と、チャンネルが、こんなに有るから、なんなと有るやろう」とまた、私は、怒って言ってしまいました。

私も70歳が過ぎて・・・ある日
「テレビが無いなあ、テレビが無い、なあお姉ちゃん、年寄りは、テレビも見るなって言うのか?何にも無い」と、叫んでました。
「あっ、これや、お母さんがテレビが無いテレビが無いって言ってたん。チャンネルがこんなに有るのに、私が見て楽しいものが、無い。これやったんや、テレビが無いって」
私は、お墓へ行って、心の底から
「おかあさん、テレビ無いなあ~テレビ、私も、とうとうテレビが無くなったわ」と、
大きな声で、言ってました。
そして今の私、腰を痛めて・・・ヒザまで・・・
”腹筋きたえて筋力つけて下さい”だって。
おかあさん、やっと気づいたよ。
「歩かんと歩けんようになる」やね。
わが身に起きて、身に染みて心から実感!

今度、母に会えた時
「おかあちゃん、ごめん、本当にごめん」
と、抱きしめたいです。

かけがえのない夫婦の日常

感謝の50年

桜、満開の春 4月夫は 静かに 76才で 旅立ちました。
お父さんへ

病院の帰り、バスの時間を いつも気にしてくれてありがとう。

私の作ったスープ これが一番 おいしいと言ってくれたことありがとう。

家で 胃ろうの手当をする時 看護婦さんみたい!と ほめてくれたこと ありがとう。

私が 乳ガンの告知を 受けた時、泣いてくれたこと ありがとう。

私が 抗ガン剤の治療の間 いつも 終わるまで 待っていてくれたこと ありがとう。

私が歩けなくなった 時、歩く練習をしようと 手を つないでくれてありがとう。

お父さんが 旅立った 三ヶ月後 私の乳ガンは 寛解 しました
十年間 いつも 病院に つきそってもらったこと ありがとう。

旅立つ 二日前 午後十時 私が 送った 最後の 携帯メール 読んでくれて ありがとう。

お父さん 早や 二年が すぎました。
オロ、オロと泣いていた 当時 からは 卒業しました。
五十年余り 苦楽を共にしてきた 思い出は、私の宝物です。
そのことは 私の 心の中で、光、輝いて
私の 生きる 力を 応援してくれています
いつも 私を守ってくれた お父さんは 側には いないけど
寂しさは 消える ことは ない けれど
お父さんの 魂は、ずっと つながっていると 信じています
今 私は
お父さんが 望んだように 息子家族の近くで 一人暮しをしています
五年生の 晴君は、お父さんと指切りをして 約束した 野球と勉強 がんばっています。
幼稚園の 奏君は、食べることが 大好きで、お父さんに 似ています。
にぎやかに 楽しく 暮しています
お父さん 安心して下さい。
お父さん 又、逢いましょう。

娘から父へのラブレター

春のデート

お父さん。突然ですが、私が今までで一番思い出に残っているデートの話を聞いてください。天国で「娘のそんな話聞きたくない!」って喚いているかもしれないけど、どうしてもお父さんに聞いてほしいのです。

あれは春でした。お気に入りのワンピースに袖を通し、ぴかぴかなおニューの鞄を背負って、私は家を出ました。逸る気持ちで待ち合わせのバス停に迎えば、すでに到着していたその人が、やさしい笑顔で迎えてくれました。ぽかぽかとした日差しの中、春の香りに包まれながら、その人の大きな手に引かれて歩いた桜道。田んぼに向かってふたりで歌ったデタラメな歌。指でなぞった飛行機雲。眼に映る全てが輝いて見え、楽しくてたまりませんでした。
喫茶店にも初めて入りました。その人は自分のぶんのコーヒーと、当時コーヒーが飲めなかった私のためにマシュマロがたくさん乗ったココアを注文してくれました。甘くて、とっても美味しかった。
もうあれから十五年も経ちますが、そのときにその人がかけてくれた言葉を今でもよく覚えています。

「小学校で嫌なことがあったら、お父さんにすぐ言うんだぞ。守ってやるから」
そうです。相手はあなたです、お父さん。

私が幼稚園を卒園し、小学校に入学する直前の春でした。毎日仕事が忙しく、なかなか一緒に出かけられなかったお父さん。そんなお父さんが久々の休日に「入学前に通学路をふたりで歩いてみようか」と誘ってくれたことが、どれだけ嬉しかったか。ませた私が「お父さんとデートだ!」とはしゃいだからか、わざわざ先に家を出て待ち合わせまでしてくれたこと。まだ入学もしていないのにぴかぴかのランドセルを背負って現れた私を見て、「世界で一番似合う」と笑ってくれたこと。マシュマロの乗ったココアのあたたかさ。どれもとびきりの思い出です。お父さん、あのときデートしてくれて本当にありがとう。

あれから十六年、お父さんが癌で亡くなってからは十二年が経つ来春、私は社会人になります。なんの因果か、小学校の近くにある会社に採用が決まったため、かつての通学路を歩いて通勤することになりました。もうあのときの田んぼも喫茶店もありませんが、胸にある思い出を毎朝なぞることができるのだと思うと、とても楽しみです。
ちなみに、あの春のデートを超える相手とはまだ出会っていないことを、心配性のお父さんに一応報告しておきます。

アイスクリームがつなぐ絆

大好きなお父さんへ

「お父さん アイスクリーム 食べたい!!」
「よし‼ わかった!! 買いに行こう!!」
小さな私を自転車に乗せてお店に連れていってくれたね。お店に着くと
「康子がいちばん好きなアイスクリーム今日はどれかな」私の頭を優しくなでながら、お父さんが言うと「どれにしようかな神様の言う通り」と私は歌って、今日のアイスクリームを決めたね。私が小学校の頃上靴を学校に届けてくれたね。お父さんはそのころから少し髪が白くなっていて、クラスで一番の元気な男の子が誰かのじいちゃん来てる!! っと言ったのお父さんはにっこり笑って私に上靴を渡してくれたね。学校から帰った私は、はずかしいから学校には来ないで!! っと大泣きしたね。お父さんはその日、髪をまっ黒に染めてこれでいいかな康子っと笑ったね。
あの時の真っ黒な髪の毛は今までのお父さんじゃない不思議な気持ちだった。
今思うと大きな愛の魔法にかけられちゃったみたい
中学、高校、短大と子供から大人へと成長していく私をそばでそっと見守ってくれたね。結婚式の前日、お父さんは「直人くんが旦那さんなら安心だ」と安堵とちょっぴり寂しそうな顔をしてたね。
しばらくして“おじいちゃん”とよばれるようになった時、私と同じように三人の息子たちを可愛がってくれたね。
「じいちゃん アイスクリーム 食べたい!!」
「よし!! わかった!! 買いに行こう!!」
同じフレーズでね
仕事真面目で家族思いの優しいお父さん
お父さんとのお別れの日
“康子 ありがとう”と小さく手を振ってくれたね。
あの日からもうすぐ1年になるよ
魔法がつかえたら お父さんに逢いたいよ
だけどね、私の心の中のお父さんには
いつも 逢える そう いつものように にっこり笑っているお父さんとね
いっぱいの愛をありがとう。
 ずっと大好きなお父さんへ
康子より

ずっとそばにいてくれた猫たちへ

待たせてごめんね。~納骨終わりました~

子供たちへ

ゴン太、キキ、ジッポ、クルミ やっと納骨終わりました。
長いことそばにいてくれてありがとう。
納骨が遅くなってごめんね。

正直言うとね、納骨しないかもって思っていたの。
ずっとそばにいて欲しかった。
でもね、私ももうすぐ六〇歳……自分に万が一の時に子供たちのお骨はどうなるんだろう。
ゴミで出されるのだけはいやだ。
全然知らない土地に埋められるのもいやだ。って思ったの。
そんな時に一緒に入れるお墓を見つけたの。
お花もいっぱいあって、大仏様もあって。なかなかいい場所でしょ。
クルミがあちこち走り回るのが見えたよ。
クルミ、大仏様にいたずらしたらダメだよ。

お墓を買うって決めた時は納骨はまだまだ先だと思っていた。
でも、墓石ができて急に納骨しなきゃって思えたの。

お墓を買った後みんなが戻って来ていたでしょ?
家の中に気配を感じていたよ。
喜んでいるのもわかったよ。
だから納骨の決心着いたのかな?
背中を押してくれてありがとう。
家にお骨がなくて寂しいけれど、納骨してよかったと思っているよ。

ゴン太が亡くなって今年で二〇年経つんだね。改めて亡くなった日を見てびっくりしました。
ゴン太、いつも優しく私を支えてくれてありがとう。
私が泣いていると頭をなでてくれたね。困ったような顔してギュッとしてくれたのが忘れられない。
キキはしっかり者のお姉ちゃん。私はいつも怒られてばかりだったね。
お風呂で寝ちゃった私を起こしてくれたね。
それからは長湯するといつも見に来てくれて。
大丈夫だよ、もうお風呂で寝たりしていないよ。。
ジッポはいつもクルミの面倒を見てくれてありがとう。甘えん坊さんなのにクルミの面倒はちゃんと見てくれていたね。でも無理しなくていいからね。
ジッポが食事を食べれなくなって、「ちゃんと食べなきゃダメだよ死んじゃうよ。」って私が言ったら「もう無理だよ」って言ったよね。覚悟していたの?
ムリさせちゃったね。頑張らなくていいんだよ。我慢しなくていいんだよ。
いつでも抱っこするからね。
クルミ。いい子にしている? いたずらしていない? お姉ちゃんとお兄ちゃんを困らせていない?
クルミ、正直言うとね、クルミと二人での生活はちょっと不安だったの。
みんなが逝ってしまってクルミと二人になって大丈夫かな、うまくやれるかなって、不安があった。でもクルミもしっかり一人で留守番できたし、頑張っていたよね。
よく二人でお散歩に行ったね。クルミは木に登ったり走り回ったり。途中でウンチするから袋も毎回もって歩いて。それに途中でお水を飲むっていうからいつもお水も持って。
ワンちゃんのお散歩みたいだったね。でも楽しかった。

みんなが亡くなってもう猫を飼わないだろうって思ったけれど、蓮がやってきたの。
みんなの弟だよ。時々仏壇で私と一緒にお線香あげていたから知っているよね。
お墓参りには蓮は連れていけないけれどいつか蓮も一緒にお墓に入るからね。
そして私もいつか一緒になるからね。
それまではこの世とあの世と別々の世界にいるけれど、でもね、心はいつも一緒だよ。
またいつでも家に戻って来てもいいからね。ふらりと遊びに来ていいんだよ。
ここはあなたたちの家なんだから。
そしていつの日か天国でまた一緒に暮らそうね。
その日を楽しみにしているね。

もうしばらくはこの世で修業を積んでいきますので見守ってくださいね。

あなたたちの母より

自死で失った妹へ伝えたい言葉

見てくれていますか?

貴女が急に逝ってから13年が過ぎました。こちらは何故なのか? どうして相談してくれなかったのか、わからない事だらけでした。そして今でもわからないままです。
りぃが残していったタマとコウ(犬)はきちんと最後まで育てましたよ。もう我が子の様に育てました。こんな可愛い子達を残して旅立つのには余程の事があったのかと思います。相談してくれればと今クレームです!
お空から見てくれていますか? お母さんは寝たきり、意思疎通も出来ない状態になり、お父さんも認知入ってきました。りぃのお兄ちゃんも障害プラス認知入ってきてお姉ちゃん一人では中々大変ですよ。
いつも思います。りぃが居てくれたらなと。でもこれもお姉ちゃんに与えられた試練なんでしょう。頑張るからいつも見守っていてね。
りぃへ伝えます。りぃが亡くなった時にお母さんが一人泣きながら書いていたのであろう手帳を見つけました。しっかり聞いてね。

泣き濡れて 我が子の遺体の冷たさに
暖かくなれとかおをつけ
老いし母の最後の愛

あせらずとも必ず行ける後世の国
何故りぃは急ぎしや

今日もまた 朝飯(あさげ)供えし仏壇に
早くお食べ 沢山お食べと手を合わす
減らぬお膳の冷たさよ

残されし2匹の可愛い子 さぞや心残りであったろう
後は任せと引き受けて 心も体もボロボロの 三年忌迎える迄はと手を合わす

母の愛届きましたか?
いつかは会えるよね。お姉ちゃんはきっとりぃが待っていてくれると信じてます。

でもりぃ。
お母さん昨日そちらへ旅立ちましたよ。
導いてあげてね。よろしくね。そしてお疲れ様でした。

母の介護と私の後悔

母ちゃんに逢いたい

「母ちゃん」って、いつでもそこに居るもんと思ってた。
時々、小遣いくれたり、旦那の愚痴を聞いてくれたり、畑で採れた野菜くれたり、その時は当たり前すぎてありがたみがわからなかった。
でも今、財布の中が空っぽでも誰も入れてくれない。野菜は買ってる。仕事帰り、ついつい実家の方に指示器をあげてしまう。「あ! 母ちゃんおらんのや」現実に気づきハッとする。
何でおらんのやろ。母ちゃんやろ、いつでもおるんとちがうん?
少し具合が悪くなり、毎日仕事帰りに実家に寄ってた。母ちゃんの大好きなお刺身買って。
「美味しい・美味しい」って食べてくれた。
それが一か月経ち、半年が経ち、仕事と家庭の事と母ちゃんの事と疲れがピークになってた。それでも月のうち半分は病院に入ってたので、何とかそこで息抜きをし、又半月面倒を見てた。
「明日から又2週間病院や、帰ってきたら電話するな」
やれやれ、半月の間楽になるわ。
夕食の用意せんでええし、と思っていた所に、その日の夕方
「すうちゃん! 帰って来てん、入院しなくてよかった」と母ちゃんの元気な声。
おもわず「なんで? なんで帰ってきたん?」
バカな私。入退院ばかりしてて私に心配かけてるから、入院しなくて私が喜ぶと思って、元気な大きな声で「帰って来たよ」と言ったのに、私は私の都合ばかり考えてて、ひどい言葉をかけてしまった

ほんまに最低な娘や。
それから二週間あまりで急に居なくなった。
ごめん母ちゃん。ずっと心に刺さってるわ。あの一言が。
母ちゃん!
いつもずっと本気で話し合ったよな。
二人ともおふざけ大好きやったよな。
母ちゃん!
元気やったやん。声おっきかったやん。
今年はスイカ作らへんの?
母ちゃん!
庭のアジサイ満開やでぇ。
何でおらへんの?
いっつもそこにおったやん。
逢いたい。又 仲良くケンカしたい。

戦後まもない家族の食卓

お父さんのぐちゃぐちゃ料理、本当はうまかった

私と夫、老夫婦2人だけの夕食を準備する毎日。2人共それほどの量は食べないが、若いころからの習慣でついつい何種類ものおかずを作ってしまう私。当然、全部は食べきれずに翌朝の食事そして弁当にも同じ物を出す時がある。
そんな時はあれこれ混ぜたり、何かを加えたりしていかにも違うおかずに変身させたりと工夫するのが楽しい。時にはとんでもない物になってしまうこともあるけど。
ふと、幼い頃の記憶が蘇ってくる。戦後間もない貧しい時代、食べ盛りの4男1女を育てるために両親は朝早くから夜遅くまで働いていた。朝早い仕事に出かけて夕方の早い時間に帰ってくる父の方が夕食を作る割合が多かったと記憶している。私は父が料理をするのが嫌で嫌でたまらなかった。何故なら父の作ったおかずの中には色々なものがぐちゃぐちゃになって入っていたから。カレーの中には昨晩のうどんが混じっていたし、うどんには朝の味噌汁の具が入っていた。一番に見た目が良くない! 物のない時代だから、大家族が食べるための量を増やすために残り物はすべて一つの鍋に集められてしまったという感じの父の作ったおかず。
ある時、とうとう私は爆発してしまった。「お父ちゃんのご飯、私は食べたくない!。」小学校2~3年のころだっただろうか。当然、父は烈火のごとく怒り「そんなら夜ご飯は食べんでもいい」と言い放った。今の様に何かほかに食べるものがあった時代でもなかった。父親似の頑固者の私は泣きながらひもじい腹をかかえて寝るしかなった。
母が茶碗に父の作ったぐちゃぐちゃの物を入れて私のところへこっそり持ってきてくれた。それでも私は「要らん!」と泣きじゃくるばかりだったが、誰よりも私の性格をよく知っている母の説得に負けて「少しだけ」と一口食べてみると「あら? 美味しい」とそのままペロリと一杯食べてしまったのである。
父の年をとうに越した今だから分かる。あの時は何とか家族にお腹いっぱい食べさせたいばかりだったんだね。お父さん、わがまま娘のこの私もそんな気持ちが分かるようになりました。

朗読動画

鎌倉新書の社員有志が制作した動画から3本をご紹介します。

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